学生ボランティアは利己的???
- 国内 フォト
- 2021年2月23日
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みなさん、学生団体による国際協力は利己的なものだと思いますか?
公的な支援やNGOの活動と比較すると、非常に小規模な私たちの活動に、果たして意味はあるのでしょうか。
ボランティア・ツーリズムの範疇における学生の国際協力ボランティアは、その「利己的な動機」のために、しばしば批判されています。ゴミ山の見学やスラム街の調査など、商品化された貧困と不幸をツーリストが消費し、自己発見や自己成長という形で満足を得る形態は、「新植民地的」性格を帯びていると考える人もいます¹。
さらに、学生ボランティアには2つの不安定要素があります。自主性、換言すれば、自由性を特徴とする“ボランティア”という不安定さ。それは裏返せば、「義務」などなく、いつでも責任のリールを手放すことができるということ。 そして、社会的地位 、知識、技術、経験のどれにおいても、社会人と比べれば中途半端な“学生”という不安定さです。
やっぱり、学業やアルバイトと並行して国際協力に携わり、自己成長や、世界に笑顔を増やしたいといった自分の願望を満たすために現地に足を踏み入れることは、「自分勝手」なのでしょうか・・・。私たちの活動は利己心の塊であり、無意味なのでしょうか・・・。
ここまで悲観的ではなくても、国際協力に関わる学生なら、一度はこのテーマについて考えるものだと思います。
私自身もFEST TOKYOという学生団体に所属して、国際協力をする意義についてよく考えます。その中で、自分の活動を肯定的に捉える後押しをしてくれた一本の論文に出会いました。その内容を少し共有させてください。(参考にした論文は、文末に記載しています)
まず、国際協力系学生団体のボランティア活動には、不安定さを持ち合わせるゆえに、公的な支援にはない強みがあると述べられています。それはホスト・コミュニティの“主体性”を維持しながら、学生とホスト・コミュニティが共に成長できるということです。
つまり、私たちが学生であるために、ホスト・コミュニティは「助けられている」という負い目を払拭し、逆に、学生を「教えるべき相手」として接する傾向がある。その結果、公的援助のような急速な変化の強要もなく、自分のペースで自発的に自己発展できるというのです。
みなさん、どう思いますか?
もちろん学生の力だけで解決できることには限度があるでしょう。しかし、私はこの論文を読んで、私たちの支援地とのかかわり方は、字義通りの国際的な(inter-nationalな)協力の形とも捉えられると思いました。公的機関もそのスタンスを変えてきてはいますが、やはり国際“協力”というよりも、国際“支援”や“援助”ということばが似合う段階にいると感じます。
みなさんの考える、学生の国際協力団体の強みは何でしょうか?なぜ私たちは学生として国際協力に携わっているのでしょうか?ぜひ、コメントにご意見お寄せください!
¹ 藤山 2017にて、薬師寺浩之「海外孤児院 ボランティアツアー参加者の経験と開発途上国に対する印象に関する考察」、立命館大学地理学教室編『観光の地理学』、2015、文理閣の参照部分より
▷参考文献
「国際協力における「緩い」よそ者の役割-インドネシア・コミュニティ学習活動センターに対する学生ボランティア活動を事例に-」『立命館国際地域研究』, 2017年, 45号, 45-62頁
国際協力NGO FEST TOKYO
国内フォトワーク事業部 高橋日向子

私も国際協力系の学生団体で活動していました。多くの人がこういった活動に参加するきっかけには、「貧しい人々のために何かしたい」「かわいそうな人々を救いたい」といった思いがあるように感じます。しかし実際に活動してみると、自分たちの無力さを感じることが非常に多く、現地の方々に学ばせてもらうことばかりです。学生側の受け取る恩恵に対し、それ相応の価値を返せているかさえ疑問ですが、少なくとも国際「協力」という言葉にあるように、学生ボランティアと現地の方々が相互で恩恵を受ける関係性であることは常に心に留めておきたいですね。